無我
禅では無我と言うことを大切にする。
これは我がないと言うことであるが、それなら我とは何か、と言うことにならざるを得ない。
なぜなら我とは何かがわかれば、無我とはその我がないと言う事だからである。
さて、問題は「我」である。
私の経験上、ほとんどの現代人は各々の身体をもって我だと考えていると思う。であればその身体とは何か。
知る限りどんな生物の身体も永遠ではない。最後は必ず消滅する。
その場合でも我は生き残るのだろうか。
その前に、そもそも身体は新陳代謝により数年サイクルで骨の髄まで細胞全部が入れ替わるので、一時たりとも元々の形を維持する事は無い。
我とはそんな流動性の高いものの事だろうか。
いや、私の知る限り、普通に多くの人が言う我とは、今日も明日もその先も長期に渡り変わらない何かを指しているように思える。
それでは長期に渡り変わらず、固定した、何か身に備わるものでもあるのだろうか。
このような考えをドンドン具体的に進めていけば、結局、イメージ上の我と、事実上の我とが一致しなくなってしまう。
イメージ上の我とは何か?
事実上の我とは何か?
このテーマを禅的に置き変えると、
「自我」と「本当の自己」、
という事になる。
ここから先が禅の世界である。
そしてここから先が、無我、身心一如、大調和の世界が大展開する飛躍の場である。
暫く立ち止まり、静かに座り、自分を見つめてみましょう。